<引用元:ニューヨーク・ポスト 2019.2.26>
「60ミニッツ」の元特派員、ララ・ローガンがセンセーションを巻き起こしたのは先週のことだ。「マイク・ドロップ」というポッドキャスト番組で、余りにも多くのメディア関係者が「政治活動家」になってしまったと発言したためだ。彼女は、ニューヨーク・ポストに、偏った報道がいかにマスコミの信頼を損なったかを以下に説明している。
私は、合法的にお酒が飲めるようになる前から、ジャーナリストの仕事をしていた。南アフリカのダーバンで土曜日の夜、ほとんどの高校生が友達とパーティーを楽しんでいる時に私がした最後の仕事は、私が働いていた日曜新聞の初版を警察署、消防署、病院、そして死体安置所に手渡すことだった。
南アフリカは暴力の時代だった。人々は自由を求めて戦うために、アパルトヘイトの不正に対抗して立ち上がっており、私が育った場所は激戦地の1つだった。私は死体安置所の夜勤職員を説得して規則を破らせ、彼らが受け取った死体の数を教えてもらった。私が質問攻めにすると、彼らは折れて、私に自分で死体を数えさせてくれた。それが重要だったのは、政治的暴力で毎晩何人が死亡しているかを誰も知らなかったからだ。警察は決まって町から死体を除去してしまうので、政府は真実を隠すことができた。
だがその夜、毎週、その1カ所で、私は真実を知った。そして、私は直接そのことを知ったので、誰もそれを奪うことはできなかった。
30年ほどたった現在、私は当時と同じように自分の仕事をしている。つまり、偏見のない広い心で、たくさんの質問をして。意見や偏見というものは最も人間的なものだ。そんなものは無いというのは不正直だ。だがプロのジャーナリストとして我々が持つのは、それを克服するための単純な基準だ。つまり2つの直接の情報源であり――全てに疑問を持ち、独力で確認しろということだ。これを考案したのは私ではない。――私はエドワード・R・マローのような人たちからそれを受け継ぎ、伝え続けようとしている。
ジャーナリストは活動家ではない。特定の理念に対する情熱を共有することもあるだろうが、我々の仕事は、事実がどこに行き着こうともそれを追うことだ。崇高な理念の評判に傷をつけるようなことでも、活動家なら無視したとしても、我々は無視することはできない。我々の義務は真実の全体像を探求することだから、目的と同様に手段にも気を遣う必要がある。
我々は、自分たちの論拠を証明するために、都合のいい事実だけを集める弁護士でもない。幸いにも真実は1つしかない。それをどう感じ、どう理解しようと、そうしたものは主観であり、真実そのものは別だ。
何にもまして、我々はプロパガンダ活動員でも政治工作員でもない。これは我々の仕事ではないのだ。
私は、同僚に対して、また我々のジャーナリストとしての本領に対して深い敬意を抱いている。現在我々は、総じて本領を発揮していない。私がやっているように、全国の町々で聞いてみるといい。どこに行っても、人々はジャーナリズムに信頼をなくしたと言っている。それは、あらゆる職業、あらゆる政治的色彩の、全ての人が言っていることだ。
率直に言って、その人たちのせいだとは思わない。この責任は我々に端を発するものだ。
この国のジャーナリストの圧倒的多数が正式な民主党員であることは事実だ。我々の出身大学では、同じように1つの政治思想が優勢である。これが問題なのは、報道が非常に偏ってしまっているためだ。人々が我々の職業に対する信頼を失った理由を解明しようとするなら、まずは自分たちが誰なのかということに正直になってみよう。
メディアが逆の方向に傾いていたら、私は同様に感じるだろう。憂慮させられるのは、この戦いの性質が偏っているためだ。それは、建国の父たちが憲法修正第1条を書いた時に考慮したことだろうか?
我々は、保守派の報道機関を政治的偏向を理由にはねつけるが、リベラル派の報道機関を同じ基準に当てはめることはない。客観的だと主張する多くのジャーナリストは、事態の緊急性が、ジャーナリストとしての基準からの逸脱を正当化するのだと言って、公然と1つの政治的立場を取ってきた。それなのに、自分たちの報道は公平だと信じろと言うのだろうか?
トランプ時代において、我々が報道基準からどれほど逸脱してしまっているか、という例を探すのは難しいことではない。簡単な例を挙げれば、タイム誌はドナルド・J・トランプ大統領の就任初日に、大統領がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの像をホワイトハウスから撤去したとして、間違った報道をした。ニュースはあっという間に広まった。だが記者は、ジャーナリズムの最も基本的ルールに従わなかった。――本当になくなってのか?なぜなのか?とホワイトハウスに電話で尋ねることをしなかったのだ。記者はその後、自分のツイッターアカウントで、「MLKの胸像はまだホワイトハウスにある。職員とドアのせいで見えなくなっていた」と述べて訂正した。
これは、タイムとその記者が宣伝して信じさせたかった人種差別主義の話を煽ったもので、だから事実確認が不要だったのだろうか?私には分からない――そうだったのか?誰もがうっかりミスすることはあるし、私も全く例外ではない。私自身もこの30年の報道の仕事で、数回のミスを犯した。だがこのミスを、独立した捜査記者のシャリル・アトキッソンがまとめたリストにある、他の70の例と並べて検討して欲しい。報道機関は何度も繰り返して同じ太鼓をたたき続けているというのに、それはミスなのだろうか?現在ほど我々への信頼が低下している中、問うだけの価値のある質問だ。
こうしたことを書くことで私は非難されるだろう。だがそれによって、私の言葉が重要だと分かるので、こうした非難は歓迎する。また私は、真実と、誠実で独立した報道のために立ち上がることを信じるジャーナリストを代弁している。大部分は自由に公に発言できない。我々は、自由な国に住んでいるというのに、ジャーナリストとしては自由ではないのだ。
彼らは我々の仕事の本質を非難することはできない。だから、メディア・マターズ・フォー・アメリカのデイビッド・ブロックとそのスタッフのようなプロパガンダ機関は、中傷・操作し、彼らの十分に資金提供された政治議題によって促進された、作り話をでっち上げる。自分たちの論点をオウムのように繰り返す、大勢のボットとジャーナリストの一団を使って、彼らは黙らせ、脅迫する。彼らは、不公正と偏向に対する我々の批判を利用して、我々が保守派だといって不当に糾弾する。だが我々は全員知っている。非難の声が大きければ大きいほど、真実に近づくのだということを。
私は誰の所有物でもない。どんな政党も、組織も、企業もだ。我々が自由であるのは、自由が我々の中に生きているからだ。誰が与えたものでもなく、奪われることもない。
そして我々は、団結する時に最も強力になるのだ。
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